高坂昌信の名言
高坂 昌信(こうさか まさのぶ、大永7年(1527年)-天正6年5月7日 (旧暦) 5月7日(1578年6月12日))、春日虎綱(かすが とらつな)は戦国時代 (日本) 戦国時代の武将。武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。幼名を源介。源五郎。弾正忠。逃げ弾正と称される。始め春日姓。また、姓は正しくは「高坂」ではなく「香坂」。但し、香坂を名乗っていたのは永禄年間の短期間で、すぐに春日姓に戻っている。諱は正しくは「虎綱」。
武田信玄の帷幄の中にあって高坂昌信は異色の出自を持つ武将である。父は甲斐国の豪農・春日大隈でそもそも武士の出ではない。16歳の時に父が死去し、姉婿と遺産の田畑の問題で訴訟となり、敗訴して身寄りが無くなってしまった折に武田信玄に奥近習として召抱えられた。美童であったと言われた昌信は若き信玄の衆道の相手も務めたと言われ、信玄が昌信宛に送った浮気の弁明状が現存している。
八分の勝は、危うし。九分十分の勝は、見方大負の下作也。
- 解説 -
武田信玄の臣、高坂昌信。「甲陽軍艦」の原作者。「甲陽軍艦」は、江戸前期の公衆流軍学書です。
「甲陽軍艦」より。戦いである程度勝利したと思ったら、気を引き締めなければなりません。
圧勝するような気配なら、大敗の兆しがあります。
もう勝ったと思う気の緩みこそが負けに繋がります。
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