ミハイル・レールモントフの名言

喜びは忘れ去られていく。しかし、悲しみは忘れることはない。
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スコットランド系の小地主貴族、退役陸軍大尉を父としてモスクワに生まれる。3歳で母を失い、母方の祖母に育てられた。モスクワ大学に2年間在学して中退し、ペテルブルクの近衛士官学校を1834年に卒業後、近衛軽騎兵少尉に任じられ、ペテルブルクの上流社会に入った。彼は早くから作品を書いていたが、有名になったのはプーシキンを決闘に追いこんだ宮廷貴族への憎悪に貫かれた詩《詩人の死 Смерть поэта,1837年》以後である。"復讐を、陛下よ復讐を!"との叫びが入ったこの詩は筆写されて流布し、転任の形式でカフカスへ流される原因になったが、カフカスにおいて彼の才能はむしろ開花した。祖母の奔走により1年足らずで首都に戻ることはできたが、危険人物として政府に監視されることになる。フランス公使の息子との決闘事件のため、1840年に再びカフカスへ転任を命じられた。以後彼は軍務を厭うが、刑罰としての辺境勤務は自発的な退職を許されなかったため、絶望した詩人は山地民族討伐において命を惜しまず戦った。「できるだけ早く死にたいのだ」と2度目のカフカスへの出発のさいに友人に語っていたこともあり、死に場所を求めていたことが推測される。レールモントフに好意を寄せる上官は、〈勇敢〉のかどで再三賞与の申請をしたが、当局はそのたびごとに却下した。きわめて些細なことが原因で同僚士官マルトゥイノフ(Martynov)と決闘をして、ピヤチゴルスクで死んだ。

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